小説 1970年フォークジャンボリーの夏 5

2007年12月09日

1970年全日本フォークジャンボリー(通称 第2回中津川フォークジャンボリー)
8月8日(土)13時45分ー9日(日)12時、
岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)椛の湖畔にて開催された、
当時としては日本最大の野外フォークコンサートでした。
その1から
その2から
その3から
その4から



1970年フォークジャンボリーの夏 その5
だから そこに行く!(会話は岐阜弁です)

「オハイヨー!オハイヨー!」
唐突に感に触る日本語英語で、誰かがステージの上で叫んでいる。
しっとりとわずかに湿った朝の大気に包まれ、俺は目を覚ました。
「オハイヨー!オハイヨー!」とステージ上では、しつこく叫んでいる。
周りの人々も、その甲高い声に起こされ目を覚ましていった。
何時なのか分からないが、もう日差しは明るく会場を照らしている。
野鳥の鳴き声もチュンチュンと、遠くから聞こえてくる。
俺は、昨日の興奮は夢ではなかったと、改めて自分の心に刻み付けている。
眠りこけていたので、一晩中コンサートが行われていたのかどうか、俺は知らない。
殆んどの人が、そうだろうと思う。
「オハイヨー!オハイヨー!」と叫ぶ、ジョン・レノン・モドキのグループが演奏を始めた。
”Let It Be Let It Be Let It Be・・・・”ビートルズのコピーバンドであるのか、聞きなれた曲を何曲も演奏している。
ビートルズの歌を眠い頭で聞き流しながら、俺は水の出ている炊事場まで足を運び、顔を洗った。
「おはよう!」と、俺の後ろで声がした。
昨日、傘を差してくれた女が後ろから言ったのだった。
「あ・・おはよう・・」眠い口調で答えた。
「昨日の夜となんか感じが違うね」女が言う。
「そうですか?眠いから・・」そう俺が答える。
何か気のきく言葉でも話せばいいのだろうが、何も話す事が見つからないまま、俺はそのまま炊事場を立ち去って言った。
自分は、つくづく無粋な奴であると思った。

ステージでは先ほどのバンドが演奏の真っ最中であったが、眠気を覚ますために俺はぶらぶら散策を始めることにした。
出店は、朝からやっている。
珈琲を頼んでいる客や、熱い饂飩をすすっている奴もいる。
トイレは長蛇の列で、待つのも大変だ。
木陰で野宿したカップルもいれば、まだテントの中で嚊をかいて寝てる奴もいる。
人々は、それぞれ自由なことをしながら、朝の時間を楽しんでいるようだった。

何組かのバンドやシンガーが出演し、2日目のフォークジャンボリーも昨日に引き続き盛り上がっていた。
山平和彦、加藤ヒロシ、高橋キヨシ、六文銭、ソルティーシュガー、モンタ頼命、杉田二郎・・・・・
1人でもライブが出来るミュージシャン達である。

思えば、気持ちが高揚しているせいもあるのだろうが、昨日からコーラばかり飲んで食事もたいした物を食べていない。
よく空腹を我慢できたのもだと思う。
自由な雰囲気と開放された気持ちで圧倒された非日常的な時間がそこにはあったのだ。
それは、平凡な時間を過ごしていた高校生には途轍もないものに思えた。
そして、このエネルギッシュで高揚した気持ちは、永遠に忘れはしないだろう。
そんなことを考えながら、おれは最後のライブの時間を待っている。

最後は、やはり岡林信康が華を飾るしかない。
スピーカーから大音響で流される、はっぴいえんどのギターの音が山や森を震わすようだ。
”今ある不幸せにとどまってはならない~~~!”
岡林の声は、昨日からの熱唱で痛々しいほど擦れている。
”まだ見ぬ幸せに、今飛び立つのだ~~~!”
しかし、そのパワフルさは、我々の心の奥底まで強烈に伝わってくる。
長い長い長い”私達の望むものは”の演奏が終わり、同時に1970年全日本フォークジャンボリーは終わりを告げた。
フォークの聖地から去る若者たちの後ろでは、風に吹かれて舞う”答え”がクルクルと空の彼方へ飛んでいったのかもしれない。



俺と平井君は、元来た巡礼の道を坂下駅へと戻っていく。
来たときと同じように、多くの若者がゾロゾロと祭りの後の気だるい表情をしながら歩いてゆく。
その日も夏の日差しはきついままだった。
坂下駅に到着すると、24時間も経過したのが嘘のように、同じような人々が汽車の到着を待っている。
岐阜へ向かう汽車が到着し、俺はまた重い荷物を担ぎながら汽車に乗り込んだ。
ピッーと汽笛を鳴らし、蒸気機関車は、ゆっくりゆっくりと進んでゆく。
そのスピードは、昨日までの日常へと戻ってゆく自分の心のようでもあった。
甲高い汽笛の音がするたびに、夢から覚めて自分の世界に帰りなさい・・・とでも言っているかのように切なく響いている。
岐阜駅に着いた時は、夕焼けが青空に取って代わろうする、そんな緩やかな時間だった。
フォークジャンボリーの興奮は徐々に冷めようとしていた。
しかし、フォークジャンボリーという広い世界を垣間見た自分が今までの自分とは違うように思えて、町の風景も少し違って見えた。
ちょっとだけ力強くなったような感覚が全身に行き渡っている、そんな不思議な力で満たされていた。
夏休みもまだ始まったばかりだというのに、街を吹き抜ける風が少し涼しくなったように感じる夏の夕暮れ時だった。

おわり




用語解説※フーテナニー’70 ラジオ番組 ’68~’73くらいまであったような記憶がありますが・・・(?)
※ミッドナイト東海 東海ラジオの深夜番組 蟹江篤子・岡本より子・天野鎮雄・森本レオ・あべ静江などがDJをやっていた。
※オールナイト・ニッポン 「Go! Go! Go! And Go's On!!」で始まる糸居五郎のDJでは大人の音楽を教わった。オープニング・ミュージックはハーブ・アルパートとティファナ・ブラスのビター・スゥィート・サンバ。かめ&あんこうの「海は恋してる」の「座布団敷いて待ってるわっ!」のセリフは有名。
※走れ歌謡曲 深夜3時~5時までの深夜ラジオ番組。演歌や歌謡曲が中心の選曲であったがフォークソングもよく流れていた。深夜運転のトラック運転手向けの番組。エンディング・ミュージックはレターメンのミスター・ロンリー。
※フォークリポート 音楽雑誌。西岡たかし氏などが編集をおこない、関西フォーク系のミュージシャンが原稿を書いていた。楽譜なども掲載されていた。
※新譜ジャーナル 音楽雑誌。主に楽譜の掲載が多い音楽雑誌で、新しいフォークソングはこの雑誌で憶えた。当時は他に”GUTS”もあった。
※モンタノ MONTANO ギター製作メーカー。現在はレアなギターとされているらしい。
※国鉄 日本国有鉄道。今のJR。
※カセットレコーダー オープンリール主流の70年頃のカセットレコーダーはまだ珍しく高価なものだった。サイズも大きくカセットテープも高価で1時間テープで当時の価格で1000円以上した。
※ピース・サイン いわゆるVサインである。このころから写真を撮るとき、このピース・サインを出すのが流行りとなって今に至る。
※アルバイト料 当時の1日のアルバイト料金は300円~800円くらい。肉体労働でも800円くらいが最高レベルといえる。
※ウッドストック ’69年8月15日から3日間、ニューヨーク・ベセルの丘で行われたロック・フォークコンサート。40万人が詰め掛け”愛と平和と音楽の祭典”と呼ばれる。フリーコンサート。
※ワイト島 1968年から1970年までイギリス南部・ポーツマス沖・ワイト島で開催された音楽フェスティバル。通常は1970年のことを指す。5日間で60万人が集まった。
※ガリ版 謄写版と呼ばれる。ロウ原紙と呼ぶ蝋を薄く塗った透明な紙に鉄筆で文字など書き、謄写版と呼ばれる手動の印刷道具でローラーにインクを付け転がし印刷をする。
※ワラ半紙 藁の粕が混じった粗末な洋紙。ガリ版摺りにはたいていこのワラ半紙が使われた。小中学校のテストはわら半紙が使われていた。ミニコミ誌や路上販売の詩集などガリ版&わら半紙が主。
※月光仮面 和製ヒーロー第1号。大瀬康一主演の子供向けアクションTVドラマ。白いマントをなびかせ白いオートバイで走る姿を、昭和30年代の子供たちは三輪車に唐草文様の風呂敷でコスプレして遊んだ。。
※恵那郡坂下町 市町村合併により現在は中津川市坂下。これによって「中津川フォークジャンボリー」は正しい名称になったと言えなくもない。
  

小説 1970年フォークジャンボリーの夏 4

2007年12月08日

1970年全日本フォークジャンボリー(通称 第2回中津川フォークジャンボリー)
8月8日(土)13時45分ー9日(日)12時、
岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)椛の湖畔にて開催された、
当時としては日本最大の野外フォークコンサートでした。
その1から
その2から
その3から



1970年フォークジャンボリーの夏 その4
だから そこに行く!(会話は岐阜弁です)

陣取った席に帰ると平井君が俺に向かって言った。
「ものすごく、うけとったぞっ!」
「受けた!?」俺は、してやったり!の気分一杯で言った。
しばらくすると興奮も冷め、ステージ上で繰り広がられるアマチュアの歌い手と”はしだのりひこ”の掛け合いを眺めていた。
後にソルティシュガーの”ハナゲの唄”で一世を風靡する”ひがしのひとし”の”鼻毛に関する社会科学的考察”や、”なぎらけんいち”の”怪盗ゴールデンバットの唄”は、この飛び入りコーナーで有名になった曲である。
十数人のアマチュアの時間が終わると、いよいよ本番のコンサートである。
アテンションプリーズ、小野和子、のこいの子、グループ「愚」・・・盛りだくさんのシンガーが歌い叫び、否応無くお祭り気分が盛り上がっていく。
加川良・高田渡・岩井宏の臨時のユニットで歌い始めた”教訓Ⅰ”や”自衛隊に入ろう””自転車に乗って”なんなかを一緒に歌ったり、俺の興奮は止めようが無かった。

夕暮れ時になると、風が少し涼しくなってくる。
山々の木々の匂いを漂わせながら、爽やかな風が興奮した男や女の間を燕のようにすり抜けてゆく。
野外コンサートでしか味わえない素敵な瞬間だ。
辺りは次第に暗くなってゆき、真夏のコバルト・ブルーの光る空の色が、ウルトラマリンの油絵の具のような深い群青色に変化して行く。
それらは、ステージの上のフォークシンガーを盛り立てる自然の舞台装置でもあった。
先ほどのシンガーが舞台を下り、次のシンガーが現れる。
その男はギター1本を抱えながら、テンガロンハットを被りヨレヨレのジーンズを引きずるように登場した。
そして、マイクの前にセットされた椅子に座ると、いきなりギターを鋸でも挽くようにガッガッガッと演奏し始めた。
”君は待ってたんだ~~~!!・・・・・・”
遠藤賢司である。
彼のパワフルな弾くギターは、まるでロックバンドのようにエネルギッシュに会場全体を包み込んだ。
とてもギター1本の演奏とは思えない迫力に、観客は圧倒され度肝を抜かれたようだった。
”なんか良い事ないかと・・夜汽車は走ってゆくのですぅ・・・・”
”遠藤賢司”の名前が、全てのフォーク・フリークの脳裏に刻み込まれた瞬間であった。
そして、何度もアンコールが連呼され、彼のステージはなかなか終わらない。
数曲のアンコールを歌い、なのこり惜しい溜息と共に、遠藤賢司はステージを後にした。

興奮冷めやらぬ観客は、まだまだどよめいている中、男3人と女1人のグループが颯爽と登場した。
”五つの赤い風船”である。
彼らが”遠い世界へ”を歌い始めると、会場全体が1つの固まりになったかのように、観客も一緒に歌い始める。
ラジオの深夜放送で幾度となく聞いている、忘れることも出来ない名曲だった。
歌い終わると、流暢な大阪弁で”西岡たかし”が観客を笑わせながら、次への曲へと導いていく。
”おぉぉ~!今も昔も変わらないはずなのに~~~・・・・!!”
ドッと押し寄せる波のように観客の拍手が椛の湖の山々に木霊した。
手拍子をとりながら立ち上がる男もいた。
肩を組みながらリズムを取る男女もいた。
西岡たかしの声と観客の声が一体となり、山々を揺るがすようだった。
演奏が終わっても拍手は鳴り止まない。
観客の興奮を鎮めるかのように”血まみれの鳩”が静かに演奏され、しだいに観客のどよめきも鎮静化されるかのようだった。
辺りはもう真っ暗になり、ライトに照らされたステージだけがギュスターブ・モローの幻想絵画のように輝いていた。



”五つの赤い風船”も退場し、静かになった舞台上では、司会のはしだのりひこが次の出演者の紹介をしている。
次は、万国博覧会帰りの”スルク大舞踊団”である。
スルク大舞踊団の女性が、白いパンツもあらわに舞台の上を所狭しと乱舞している姿は、高額出演料の名に相応しい踊りには違いない。
”松岡実&ニューディメンション”の演奏する邦楽ジャズは、初めて聴いたロックのように新鮮だった。
小雨がパラパラと降ってきたが、傘を持っている観客たちは色とりどりの傘を差し、斬新な邦楽ジャズの”テイク5”に聞き入っていた。
傘など持ってきてもいないので、俺はそのまま小雨に当たったままステージに聞き入っていた。
すると唐突に横から傘がニューッと差し出されたので、俺はドキッとして横を見た。
「あんた月光仮面歌ってた人でしょう?」そう大阪弁で言いながら、見知らぬ女が唐突に横から傘をニューッと差し出してきた。
俺はドキッとして横を見、「あ、そうです」と答えた。
そう答えたが、続きの言葉も出ない。
その隣の女も黙ったまま、見知らぬ同士の相合傘で、さらにコンサートは続く。
しだいに小雨もやみ、女は傘をたたんだ。
女は何か言いたそうだったが、スピーカーの音に圧倒されたのか、何も言わなかった。
俺も、軽く会釈をしただけで一瞬の相合傘は終わった。
見知らぬ男女が、野外コンサートで知り合いになるというパターンは良くある出来事であるが、俺はそのまま何もないまま、さらにさらにコンサート続く。

深夜に近くなると”浅川マキ”の登場だった。
寺山修司の歌詞を歌う浅川マキは、黒い服に身を包み、妙に妖艶だった。
”夜が明けたら・・・夜が明けたら・・・・”
呟くように歌う浅川マキの歌は、あの時代のやり場のない暗さのようなオーラを発しながら、深夜の星空に木霊していた。

深夜も深くなり午前1時ころになると、ついにフォークの神様とも呼ばれた”岡林信康”の登場だ。
”はっぴいえんど”の重圧なロックをバックに歌う岡林信康は、日本のボブ・ディランと命名されるのに相応しい貫禄で、深夜の椛の湖に響き渡る。
”私達の望むものは・・・!”
そう叫びながら、声もかすれて歌う岡林信康の勇姿に、観客は全員総立ちでシングアウトしている。
”・・・生きる喜びなのだぁっ!!”
俺も、スピーカーから流れる大音量の音に負けないくらいの声で歌っていた。
”まだ見ぬ幸せに、今飛び立つのだぁぁ・・・・!”
前面にあるスピーカーの音に、体全体が解けてしまうような錯覚を覚えながら、リズムに合わせて揺らす体は波に揺られている感じだった。
”はっぴいえんど”のドラムとギターの電気音が、椛の湖を、中津川を、山々を、星星をシュガーシロップのように覆い包んでいく。
人々の熱狂が、台風の目のようにグルグル見えない渦を作りながら、日本中を巻き込んでゆくような勢いだった。
長い長い興奮の時間が過ぎていく、俺は和製ロックの熱い音に包まれながら、真夏の夜の夢の真っ只中にいたのだ。
先ほどの小雨模様の空は、もうすっかり晴れ上がり、満天の星をキラキラと輝かせている。
深夜の3時ももう直ぐだ。
いつもなら、深夜放送を聞きながら、やりたくもない受験勉強を漫然とやっている時間である。
だが、今はここにこうやって見知らぬ人達だが、同じフォークソングという共通の音楽に酔いしれ、自由を謳歌している。
それは、世間知らずの高校生にとっては、未知でもある輝かしく満たされた至福の体験であった。
何度も何度もアンコールが沸き、そのつどに歌い続ける岡林信康とはっぴいえんどは、時代の象徴に相応しいミュージシャン達だった。

熱狂の演奏が終わると、観客はゴムがプツンッと切れたように静かになり、俺も猛烈に眠気が襲ってきたのだった。
所々では、寝袋に体を入れいびきをかきながら寝ている輩も居る。
少し肌寒い山の空気を感じ、体を丸めながら眠気を我慢しているが、俺もほとんど夢うつつの状態だった。
大半の観客が睡魔に襲われ、今にも夢に入り込もうとした瞬間に”南正人”の歌が始まってしまった。
”果てしない流れに咲く・・ひとすじの愛・・・・・”
ほとんど朦朧とした意識の中、そんな”南正人”の歌を子守唄にしながら、俺と平井君は夢の中へ溶け込んでいったのだった。



その5・最終話につづく
  

小説 1970年フォークジャンボリーの夏 3

2007年12月07日

1970年全日本フォークジャンボリー(通称 第2回中津川フォークジャンボリー)
8月8日(土)13時45分ー9日(日)12時、
岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)椛の湖畔にて開催された、
当時としては日本最大の野外フォークコンサートでした。
その1から
その2から



1970年フォークジャンボリーの夏 その3
だから そこに行く!(会話は岐阜弁です)

小1時間も歩くと、遠くからリハーサルの音楽が小さく聞こえてきた。
なんだか知らないが、湖の水の匂いすら漂ってくるようだ。
フォークの聖地へと向かう若者の巡礼の行列は、椛の湖畔の土手沿の上の細い道へと導かれていった。
そこは、フォークジャンボリーの会場入り口に続く道である。
何本もの幟が夏の風に吹かれてはためいているのが、遠目にもよく判った。
小さく聞こえていた音楽も、だいぶ大きな音で聞こえてきた。
・・・・とうとう来てしまった、憧れのフォークジャンボリーへ!
・・・・夢にまで見たフォークジャンボリーが、今この目の前で行われているのだ。
そんな高揚した気分で胸が一杯になってゆく自分の気持ちが嬉しい。
細い土手沿いをしばらく歩いて行くと、簡単なテントを張った入場口があった。
俺と平井君が800円を払うと、チケットの代わりに素焼きで焼いた5・6Cmの円形のペンダントをくれた。
中津川の”中”の文字をデザイン化したらしい文様の入った素焼きのペンダントは、フォークジャンボリーにやってきてしまった現実を、リアルな形で実感させてくれるようだ。
俺は、なんだか誇らしげにそのペンダントを首にかけて、コンサート会場のステージのある方向へと歩いていった。
その間の道の両脇には、オフィシャルグッズのTシャツを売る店や、飲食の屋台や何やら妖しげな物まで売っている店がが点々と並んでいる。
俺と平井君は、そのオフィシャルグッズのTシャツを並べてあるテントで足を止め、並んでいるグッズを眺めていた。
新譜ジャーナルやフォークリポートや、普段手に入らないURCのレコードまで並んで販売されていた。
「このレコード欲しいなぁ・・」と思ってみても、電車賃やフィルム代で殆んどアルバイト代を使ってしまったので、余分な予算が有るわけでもない。

そんなことなど考えている横で、二十歳くらいの女が若い男に向かって話しているのが耳に入って来た。
「何か欲しい物があったら買ってあげるわよ」
女は弟に何か買ってでもように、その隣の若い男に話しかけていた。
そして、ふとその男の顔が目に入ったのだが・・・・・なんとそいつは、あの村上だったのだった。
俺と目が合ってしまった村上は、目が点になってしまったかのように硬直した表情で、俺の顔を見つめている。
俺は、何といっていいのか分からないまま「よおっ」と手を振ってみせた。
村上は、何食わぬ顔で「今着いたのか・・」と小さな声で俺に言った。
俺は隣の女にも軽く会釈をした。
女は俺に向かって「村上君の知り合い?」と訪ねてきた。
俺は「ああ、そのようです・・」などと曖昧な返事で誤魔化してみた。
村上は焦りながら俺にこう言った。
「姉です・・」そう言いながらも、村上の目が踊っているのがはっきり分かる。
「お姉さん・・?まぁ、そうね・・姉です・・」と言ながら会釈する女の言葉が、なんだか茫漠として怪しさを増大させている。
「こんにちわ」と俺は普通の挨拶をしたが、なんだか腑に落ちない感じがしてすっきりしないのだった。
俺の頭の中は疑念で渦を巻いている。
・・村上にお姉さんなんかいたっけ?・・あんまり似てないしなぁ・・・
しかし、それ以上追求するのはなんだかいけない事のような雰囲気が漂っていたので、もはやそれ以上の詮索はしなかった。
俺はなんだか、そこに居るのが気まずいような感じがしたので、すぐにテントから出て会場の方角へスタスタと歩いていった。

「本当にお姉さんやろか?」平井君が言うので、俺はきっぱりと言ってみた。
「彼女やろっ!」
俺はなんだか裏切られたような心持になってしまい、村上を椛の湖に沈めてやろうかなどと殺意さえ一瞬浮かんだ。
しかし会場の楽しげな雰囲気に包まれていると、そんな妄想もあっという間に吹き飛んでいってしまったのだ。
会場中心のステージでは、岡林信康とはっぴいえんどがリハーサルをしている最中だった。
岡林信康の”今日を越えて”が、はぴいえんどの演奏と共に会場に鳴り響いていた。
リハーサルといっても本番と変わりなく、なんだか得をしたような気分になった
会場の周りには、幟が何十本もはためき「智惠子と歌え」とか「我夢土下座」とか色々な言葉が書き込まれている。
リハーサルを聞き入る観客は1000人を超え、人々が地面に新聞紙を敷いて座り込んでいる。

どこかに陣取らなければならないのだが、ステージ前面の中心部はもう占領されていて良い場所はもう無い。
仕方なくステージ右側のスピーカの前辺りに荷物を置いて、平井君と2人で新聞紙を敷いて座った。
ステージに近いのでそんなに悪い場所ではなかった。
それどころか、楽屋になっているテントの直ぐ前なので、待機中のミュージシャンが頻繁に見られる、俺にとってはVIP席のような場所だった。
ステージがまだ始まっていない時間には、岡林信康がファンにサインをしていたり、はしだのりひこが高田渡と歓談をしていたり、ミュージシャンの素顔が見られる幸せなポジションである。
俺は興奮して、バッグから8ミリ撮影機を取り出し無我夢中でミュージシャン達を撮影していた。
長い間撮影していたように感じたが、実際は数十秒の短い時間しか撮影していなかった。
当時の8ミリフィルムは高価な物で、撮影時間も1巻で5分そこそこの短い時間しか撮影できない代物である。
なるべく貴重な場面を撮影しようと考えてはいるのだが、真直にフォークのスター達を見てしまうと、そんな心構えもどこかに吹き飛んでしった。
写真や8ミリを撮影して、しばらくしたら気分も落ち着いてきた。
「ちょっと、その辺を見てくるは」
と平井君が言うので、俺もステージ始まるまでそこら辺をぶらぶら散策することにした。
会場周辺は深い緑の山々に囲まれ、それほど巨大な湖ではない椛の湖は人造湖のようで、水も綺麗とは言いがたいように見える。
屋台や出店のような簡素な売店があちこちに立ち並び、お祭り気分を盛り上げていた。
焼きそば屋、うどん屋、ハンドメイドのアクセサリー屋、自作の陶芸品を売っている店、喫茶店まがいの店、挙句の果てにはトイレットペーパーだけを売っている店まで並んでいる。
会場全体に漂うこの自由な雰囲気は、今までに感じた事がない開放された雰囲気だった。
イギリスではワイト島でコンサートが開かれ、アメリカではウッドストックがセンセーショナルに行わていた時期である。
俺は、きっと米英のコンサートもこんな感じではないかと、本気で思ったものだ。



しばらくブラブラしていたら、後ろで俺を呼ぶ声がした。
「酒井君も来とったのかね?」山本さん夫婦である。
山本さんは同じ岐阜市に住んでいる画家で、肩まで有る長い長髪をなびかせ穴の開いたジーンズを穿いたヒッピーのようないでたちである。
「さっき来たばっかやけどね!」俺は答える。
「これ作ったんやけど、あげるわ」と云いながら、”ちんちんかもかも”というタイトルの書かれたミニコミ誌をくれた。
当時はパソコンのプリンターなどというものは存在すらしない時代である、そのミニコミ誌はガリ版摺りの手作りのわら半紙をホッチキスで留めただけの質素な小冊子であった。
「ありがとう」と言いながら内容を見ると、自作の絵や詩をつらねた詩集のようなものだった。
「じゃ、また・・」と言いながら、山本夫妻は去っていきながら、また別の人に自作のミニコミ誌を配っていた。

深山幽谷とまでもいかないが、こうした山深い場所で日本の新しい音楽文化が勢いをつけ始めようとは、誰も予測できなかったことである。
空は真夏の青さを保ったまま山々に覆いかぶさるように輝いていた。
空気は、木々の緑の匂いと湖の水の匂いを漂わせ、時折吹く風が肌にあたるときの涼しさが心と体を優しく包んでくれるようだった。
そのとき突然のように「アマチュアで出演希望の人は、ステージの後ろに集まってください!」と、会場全体に響く大きな音でアナウンスが流れた。
「えっ?飛び入りで歌えるのか!」そう思ったら、矢も立てもたまらずステージで歌いたい衝動に駆られていく自分であった。
俺は慌てて戻り、ギターをケースから出し、ギターを抱えてすぐさまステージ裏に急いだ。
せっかく重いギターを担いで遥々やってきたのである、飛び入り参加しない手はない!そんな興奮した思いが駆け巡って顔が紅潮していくのが分かる。
そんな思いを抱きながら、ステージ裏で自分の出演順をドキドキしながら待っていると、「次、酒井さんです」と声が掛かった。
興奮してボーッとして夢うつつのまま、いつの間にか俺はステージの上に立っていた。
俺の横には、マイクを挟んで司会の”はしだのりひこ”が立っていた。
「どこから来られたんですか?」はしだのりひこは、ラジオやレコードで聞いたあの声のまま、今俺と会話している。
「近所からです・・」俺は、自分が何処かへ吹っ飛んでしまって、何を答えているのか自覚していない。
「近所と言うと、どこですかね?」
「町です」
「はぁ・・・家とかいっぱいあるとこですね」
「山もあります・・」
「片田舎ちゅーやつですね」
始終チグハグの会話のまま、いつの間にか俺は本番の唄に突入していた。
俺は、マイクに向かって「”月光仮面の唄”やります!」そう言うと唄い始める。
”ど~こ~の誰か~は知らないけ~れ~ど~・・”
そう、あの昭和30年代の和製ヒーロー”月光仮面”の主題歌である。
会場に居る2千人ほどの観客が、ドッと沸いているのがわかった。
”月光仮面”は、俺の一発勝負の受け狙いの1曲だったのだ。
夢を見ているような気分で曲が終わり、心ここに在らず状態な俺だったが、会場がどよめき拍手の嵐であったことは理解できた。
「どうも有り難うございました、次の人・・・・」はしだのりひこが閉めの会話をし、俺はステージの後ろに帰っていった。

そして、ステージ裏に出て行った瞬間、突然のように見たことあるような女が、俺にマイクをつきつけてきた。
その女というのは、フォークジャンボリー記録映画”だからここに来た!”の司会の”吉田日出子”だった。
「なんで月光仮面を唄ったんですか?」吉田日出子はニコニコしながら、こう俺に質問してきた。
「一発勝負の受け狙いです」ハァハァ呼吸が荒いまま、俺は答えている。
「なんで、一発勝負の受け狙いですか?」吉田日出子が突っ込んで聞き返してくる。
「フォークジャンボリーの思い出に・・・!」
そう答えたような気がするが、興奮したままの状態なので、自分でも何を言っているのか無自覚のままインタビューは終わってしまった。
数千人の前で歌を歌い、はしだのりひこと話をし、吉田日出子インタビューを受け、そして今こうやって興奮冷めやらぬまま椛の湖畔に佇んでいる。
それが一瞬の出来事でもあるような、またとても長い出来事でもあるような、そんな不思議な心持だった。



その4に続く・・・
  

小説 1970年フォークジャンボリーの夏 2

2007年12月06日

1970年全日本フォークジャンボリー(通称 第2回中津川フォークジャンボリー)
8月8日(土)13時45分ー9日(日)12時、
岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)椛の湖畔にて開催された、
当時としては日本最大の野外フォークコンサートでした。
その1から



1970年フォークジャンボリーの夏 その2
だから そこに行く!(会話は岐阜弁です)

フォークジャンボリー開催当日、俺は同じ写真部の副部長の平井君と一緒に中津川まで行くことになった。
フォークソング仲間の村上は、結局参加できないというので、我々2人だけでの蒸気機関車に揺られながらの3時間近くの道中となった。
国鉄・中央本線・鈍行は、岐阜駅から中津川の坂下駅までは途中下車・乗り換えなしの直通である。
国鉄岐阜駅は、南口と北口が有り、南口は昭和初期に建てられた古い建築物のままだった。
「おーい!酒井く~ん!」平井君が駅で待ってる俺に向かって、手を振っている。
はあはあ言いながら、平井君は息せき切って走って来た。
アロハシャツに小さな鞄1つだけの軽装である。
それに引き換え、俺の装備といったら見るからに重装備である。
いつものギターにカメラ2台、おまけに8ミリ撮影機、カセットレコーダーまで担いでいる。
当時の8ミリ撮影機はかなり重く、フィルムを途中で反転して入れ替える”Wフィルム”と、そのまま撮影できる”シングル・フィルム”と2種類あったが、俺の担いでいるのは古臭いWフィルムの使用できる撮影機で、重さも軽いとは言いがたい代物だった。
そして肩に担いだバッグには、それらのフィルムやカセットレコーダーなどもろもろの物が入って、これも軽いとは言いがたいバッグだった。

「あと5分しかないで、はよ行こ!」そう言いながら、俺はまるでゴルゴダの丘に向かうキリストのように腰を屈めながら、苦しそうに駅の階段を上っていった。
そんな俺を見かねた平井君がカメラの入ったバッグを持ってくれた”持つべきものは友である”ということである。
ジリリリリーンと発車のベルが鳴り響き、ピーッと汽笛を鳴らしながら、ゆっくりと蒸気機関車は中津川へ向かって出発していく。
汽車の蒸気がプラットホームに充満して、駅で見送る人々は、まるで霧に包まれたようにも見える。
しだいにスピードを早める蒸気機関車は、巨大な生物のように呻りながら、少しずつフォークジャンボリーの地へと俺たちを導いてくれるのだ。

幸いにも座席に腰掛けられた俺たちは、荷物を網棚に乗せ、ほっと一段落した。
「酒井君。荷物いっぱいやねぇ・・・」平井君が、俺の荷物を見つめながら言った。
「いやぁ・・岡林信康とか五つの赤い風船の写真とか撮りたくて・・」そういいながら、手に持っていたカメラのキャップを取り、平井君に向けて1枚パシャリとシャッターを切った。
右手でピース・サインを出し、ニコッと笑った平井君がファインダーに写りこんだ。
「平井君の紹介してくれたアルバイトは楽やったね」そう言いながら、俺はパシャリともう1枚シャッターを切った。
「そうやね、ほとんど昼飯を食いにいっただけのバイトやったね」
「道路掃除しとっただけやもんな!」
アハハハ・・と2人は同時に笑いこけた。
「おかげで、10日間で8000円も貰えたし、フィルム代も電車代も出たわ!」俺は、感謝しながら平井君に言った。
「僕は、このアロハシャツ買ったで!」平井君は、自分の着ている新品のアロハシャツを指差しながら、ちょっと自慢げに言って見せた。
天気は晴天で、汽車の窓から見える景色は、青い空をバックに夏の風景を鮮やかに展開させている。
俺たちのほかにも、ギターを抱えた青年や長髪の怪しげな男女が搭乗していて、彼らもフォークジャンボリーの参加者であることを表明しているかのようだった。

「そういえば、村上君は来んかったね・・」平井君が俺に言った。
「なんか用事があるみたいやで、来んかったは・・」俺は、ちょっと残念そうに言った。
ガタンゴトン揺れる蒸気機関車は、時折ピーッと汽笛を鳴らしながら一路中津川へ向かって走っていく。
途中の名古屋駅からは、大勢のギターを担いだ若者たちが乗ってきて、さながらフォークジャンボリー専用列車の様相を醸し出していた。
名古屋から岐阜の山間部に入るにしたがって、トンネルが多くなってくる。
長いトンネルでは、蒸気機関車特有の石炭の燃えるタール臭い黒い煙が大量に列車の窓から入り込み、乗客は一斉に窓を閉めるのだった。


中津川駅も近くなると、乗客がざわめき始めた。
「ジャンボリーは、ここの駅で降りるんじゃないか?」
「いや、違うよ、坂下駅で降りるんだぜ!」
「えっ?中津川でやるんじゃないの?」
「坂下駅から椛の湖までは、結構遠いらしいぜ!」
東京弁での会話が、あちこちで聞こえてきた。
実のところ、通称”中津川フォークジャンボリー”と呼ばれてはいたが、実際は岐阜県恵那郡坂下町の椛の湖畔で開催されたコンサートだった。
一番近い駅は坂下駅であるが、中津川駅で下車すると勘違いしていた人々も多いようだ。

汽車は中津川駅を過ぎ、坂下駅に到着した。
俺は急いで荷物を棚から下ろし、列車を降りた。
駅のホームは、ギターを肩に担いだ青年や色とりどりのチューリップハットを被った若者で一杯だった。
「椛の湖までは、どうやって行くんやろ?」平井君が俺に聞いてきた。
「地図が有るで、見てみよか」俺は地図を広げながら言った。
地図を見ると、駅から椛の湖まではさほど遠くないように見えた。
周りを見れば、歩いていく人々も大勢い居るのが見える。
会場までバスも出てはいるようだが、なにぶんお金も節約せねばならない身の上なので、やむなく歩いていくことにした。
「皆歩いていくみたいやで、結構近いんと違うか?」俺は、平井君に言った。
「そんな感じやね・・・」平井君も同感のようだった。

ゾロゾロと山並みの細い道を大勢の若者が行列を作って歩く姿は、さしづめフォークジャンボリー神社に向かう熊野詣や御伊勢参りのようなものだっただろう。
くねくねと曲がる山道は、思いのほか傾斜がきつく地図で見るよりよほど遠いように思われた。
山間部とはいえ夏の日差しはきつい。
その上、ギターやカメラを担いだ俺には、その山道が果てしなく続く巡礼の道のようにも見えるのだった。
汗が額を流れ、汗を拭くのも面倒なくらい手が痛い。
周りの行列の人々も、額に汗を流しながらも黙々と歩いている。

「・・・咽が渇いたなぁ・・」俺は独り言のように呟いた。
「・・・水でも飲みたい・・・」平井君もちょっと疲れ気味であった。
ペットボトルなんて洒落たものもあるはずもない時代である、平地ほどではないが炎天下の太陽は容赦なく俺達の咽を干上がらせていった。
しばらく歩いていくと、数人の人だかりがあった。
村の民家の庭で、数人の男女が水を飲んでいたのだった。
砂漠のオアシスとは、このことを言うのだ。
「水を飲ませてください」そう言いながら、俺と平井君は庭に入り込み、流れる蛇口から冷たい水を思う存分飲んだ。
「あんたらも、椛の湖まで行くら?」その民家のおばあさんはそう言いながら微笑んでいた。
「ああ、そうです・・」俺は答えた。
「大変やなぁ・・まぁ、適当に飲んでってなぁ」中津川弁でそう言うと、そのおばあさんは家の中に入っていってしまった。
「有難う御座います」と丁寧に挨拶し、俺と平井君はその民家を後にして、椛の湖までの長い巡礼の道のりをテクテクと歩いていった。



その3へ続く・・・・
  

小説 1970年フォークジャンボリーの夏 1

2007年12月05日

1970年全日本フォークジャンボリー(通称 第2回中津川フォークジャンボリー)
8月8日(土)13時45分ー9日(日)12時、
岐阜県恵那郡坂下町(現在は中津川市)椛の湖畔にて開催された、
当時としては日本最大の野外フォークコンサートでした。



1970年フォークジャンボリーの夏
だから そこに行く! その1
(会話は岐阜弁です)

1970年、夏。

放課後の広い音楽室の片隅で、村上はボロいガットギターでCコードのアルペジオの練習をしていた。
「やあ、村上。今日も来とったんか」
俺は、片手で持った”フォークリポート”を見せながら言った。
「おお、酒井か。そのフォークリポートは、今月号のやつか?」
目ざとく見つけたフォークリポートを見つめながら、村上が下手糞なギターの演奏を止め、言った。
「今度、岐阜の中津川でフォークジャンボリーがあるみたいやで」
ちょっと興奮して俺は言ったのだが、村上にはフォークジャンボリーの事をまったく知らなかった。
「なんや?フォークジャンボリーって?」
村上の問いに、俺は詳細な説明にとり掛かった。
「昨日のラジオの”フーテナニー’70”でも言っとったやろ。五つの赤い風船や岡林とか高田渡が中津川でコンサートやるんやて」
「なんか知らんけど、今回は2回目やと。800円やったら安いんやないか?行かへんか?真夜中もやっとて、1日中やるらしいで!」
詳細とも言いがたい説明をしながら、フォークリポートの特集記事を見せ、俺は村上に言った。
「おおっ、そうか、・・・どうしようかな・・・?」
村上は、そう言いながらまたギターをポロンポロンと弾き始めた。
「あんまり、気乗りせんのか?」俺はそう問い返してみた。
「こーゆーとこ行くのは、学校の許可がいるんと違うか?」村上は盛り上がりに欠ける抑揚で、俺に言った。
「黙っとりゃ、分からへんて」俺は強気で言ってみた。
「そーやな・・・・」村上も少し同意したが、決定はしかねている様子だった。
そして、考えながらギターをジャンジャンと鳴らしている。

この頃の”ギター”といえばガットギターの事を指すものであって、フォークギターやエレキギターを指し示す名詞ではない。
そんなガットギターでさえ、誰も使用していないのが直ぐに分かる程の緩んだチューニングで、音楽室の掃除用のモップやバケツと一緒にロッカーの中で仮死状態でほったらかしにされていた。
それがガットギターの虐げられた日常でもあった。
ましてや、フォークギターやエレキギターなど学校に持っていこうものなら、すぐさま没収されてしまう危険性も大いにある。
しかし、幸いにも俺の高校はフォークソングの好きな先生が多く居て、学校にフォークギターを持ち込むのが黙認状態だった。
登校する時に大きなギターケースを担いで来るのだから、おそらく全ての先生が知っていたのは間違いないだろう。
また、音楽室や教室でも、大きな声でフォークを歌っていたので、知らないはずもないのだ。
校則には触れているのだが、細かいことに目くじらをたてない、おおらかというかイージーというか、そんな時代性もあったのだろう。
そんな訳で、俺は鞄を持っていかない日はあっても、ギターを持っていかない日はなかったのだ。
朝の登校時には真っ先に音楽室に行き、ギターをロッカーの中に隠していった。

そのロッカーの中から、いつものように俺はギターケースを出した。
「高校受験の合格祝いに何がいい?」と親に言われた俺は、すかさず「フォークギター!」と答え、ついに中学の時から欲しかった、フォークギターを手に入れたのだった。
思えばこのフォークギターでさえ、ちょっとスリムなガットギターっぽいスタイルの、まがい物みたいなフォークギターだった。
モンタノというメーカーなのだが、きっとマイナーなギターメーカーに違いないと思っていた。
ギターケースも、ボックス型の洒落たものではなく、ただのビニールケースにすぎない。
しかし、当時の価格で1万円もするのだから、ケースにまでまわす予算は親には到底考えられない事であった。
まぁ、買ってもらっただけでも、かなりラッキーと言っても良い出来事であるにちがいない。

「友よ!」なんかを口ずさみながら、俺はビニールケースのジッパーをジジジジッと開ける。
さっそうとケースから出すギターは、あきらかにガットギターよりスリムなフォークギターであった。
ギターのネックの部分もガットギターより掴みやすく、弦もスチールである。
「”戦争を知らない子供たち”でもやってみるか?」俺はCコードを押さえながら、村上に向かって言った。
実のところ、友人の村上はギターも持っていないし、コードさえ押さえるのもままならない程の初心者だった。
村上は、自分の持ってきた音楽雑誌の”新譜ジャーナル”を開きながら、たどたどしくCコードを押さえている。
そんな村上を尻目に、俺はサッとネックに手をやり、ジャジャジャンッ!とCコードで歌い始めた。
”戦争が終わって ぼくらは生まれた~~”
村上のガットギターのガット弦は、間延びしたような情け無い響きで、スチール弦のキラキラして緊張した音色に遠慮しているかのようだった。
ハモリもしないで、ただ漫然と歌っているだけだったが、こうしてフォークを歌っている時が至福の時間だった。
高校2年生といえばもう受験勉強を始めなければいけない時期なのだが、フォーク漬けの毎日を送っている俺にはこうしてギターを弾いて歌っている時が生きている証のようだった。

受験勉強などというものは殆んどしてはいない。
深夜には”ミッドナイト東海”や”オールナイトニッポン”で流れるフォークソングは言わずもがな、ビートルズやローリングストーンズを聴きながら朝まで深夜放送三昧の日々だった。
思えば当時の深夜放送の音楽は、西郷輝彦や美空ひばりの歌謡曲が、レッド・ツェッペリンやクリームやUFOと同じ次元の音楽として放送され、それがまた違和感もなく我々の意識の中に溶け込んでいた。
そんな音楽三昧の日々は、はたから見れば限りなく怠惰な時間に見えるだろう、しかし、俺にとってはそんな時間こそが薔薇色に輝いていた永遠の瞬間だったのだ。

”戦争を知らない子供たち”の3番も終わりころになると、コーラスクラブの部員がチラホラと音楽室にやってきた。
コーラス部といっても、女子生徒が4・5人しかいない弱小クラブだった。
そのようなクラブだったので、俺たちが音楽室で騒いでいても文句も言わなかった、それどころか、一緒になってフォークソングを歌ったりもした。
「次は”遠い世界へ”やってよ!」
コーラス部の部長の村瀬さんが俺たちに言った。
「んじゃ、次は五つの赤い風船特集ねっ!」そう言うと、俺はカポタストを3フレットに装着し、Dコードで”遠い世界へ”を弾きだした。
”遠い世界に旅に出ようか~~”
俺と村上と村瀬さんが歌っていると、残りのコーラス部員もやってきて、一緒に歌い始めるのだった。
「次は、”これがボクらの道なのか”やりますぅ~!」そう言うとGコードをジャーンと鳴らし、直ぐにCコードで歌い始める。
”お~!今も昔も変わらないはずなのに~~”
コーラス部の加藤さんが、それにつられてピアノの伴奏まで付けてくれている。
”これがボクらの道なのかぁ~~~!”

女子の観客が集まれば、当然の事ながら男子のテンションが上がってくるのは必然である。
俺のギターは熱を帯び、パッツンと3弦が切れてしまった。
不協和音寸前のギターの音だが、そんなことに構わずジャンジャカとギターをかき鳴らしていると、突然、平井君の声がした。
「あーっ!こんなとこで、またサボッとる!」
平井君は、写真部の副部長をやっている友人である。
「あー、見つかってまった!」と、冗談交じりで俺が答えると、平井君はすかさず言った。
「いつものことやろ!だいたい大声で歌とったら、誰でも分かるてっ!」平井君の言葉が暗黙のうちに、写真部の暗室に来るように催促している。
「・・今行くで、待つとって!」
そう言いながら、俺はギターを村上に渡し、写真部の暗室に行くことにした。

俺は成り行きで、写真部の部長と文化部長なるものを兼任しいて、文化祭の前など結構忙しかった。
高校生の役職などというものは、何のメリットもなくただ単にやり手が他に居ないという単純な理由からやっているに過ぎない。
したがって、部長だの副部長だのと言われても、ただの平部員と何の変わりもない。
それよりなにより責任など押し付けられる状況が頻繁にあり、出来れば避けて通りたい役職なのである。
しかし、断る理由など素早く見つからない時など、もたもたしていると無理矢理その役職を押し付けられてしまうのが常だった。
俺もその、もたもたしている輩の一人の内に入ってしまっているわけなのだ。


写真部の暗室に行くと、部員の1人と副部長の平井君が赤い暗室用のランプのなかで、”FUJI”の引伸ばし機で黙々と写真の焼付けを行っていた。
暗室に入ったとたんに「後、部長、お願いします!」と言いながら、部員が逃げて行ってしまった。
そんなこんなで、結局何か面倒くさいミッションを押し付けられてしまったようだった。
「そこにあるハーフのネガ、全部焼き付けんといかんのや、手伝って」
そう言いながら平井君が必死になって、100ショットちかくもあるネガを手際よく焼き付けている。
ハーフのネガというのは、普通の35ミリフィルムに2カット撮影されているネガのことだ。
焼付けの手間は、当然のことながら2倍かかってしまう。
「ハーフのネガは面倒くさいで、いかんわ!」そういいながら、平井君は焼き付けた印画紙を現像液に漬けながら言った。
「これは、顧問の先生に頼まれたんで、断れんのやて・・・」平井君が、さも面倒くさそうに言いながら、次のネガの焼付けをしている。
こういう面倒な作業が待ち構えている時は、写真部の部員は殆んど来ない。

「そういえば、昨日の”ミッドナイト東海”聞いた?」
平井君が、唐突に深夜放送の話をしてきたので、すかさず俺は答えた。
「昨日は”森本レオ”やったなぁ」
この地方の深夜放送といえば”ミッドナイト東海””オールナイトニッポン””走れ歌謡曲”などが主流で、ほとんどの高校生が聞いていた。
「森本レオが言っとったけど、中津川でコンサートがあるんやて?」
平井君がフォークジャンボリーの事を言っているのは明らかであった。
「フォークジャンボリーのことか?」間髪をいれず、俺は答えた。
「そうそう、それやて!酒井君は行くんか?」平井君が言う。
「行くに決まっとるやろ!」俺は答えた。
「僕も行こうと思っとるんやけど、一緒に行かへん?」平井君が言う。
平井君の突然の参加表明に、俺はかなり戸惑っている。
なぜなら、平井君がフォークソングに興味があったなんて、今の今まで知らなかった。
それに、平井君のような生真面目な人物と野外コンサートという2つの現象が、俺の頭の中でまったく結びつかないのだった。
『いやぁ・・止めたほうが良いよ。フォークソングなんかやってると受験勉強も出来なくなってしまうし、不良と間違われるよ。それにきっと野外コンサートなんかに行くと、親に叱られるんじゃないかな?学校の許可もいるだろうし。平井君にはフォークジャンボリーは不向きなコンサートだと思うよ!』 
・・・と、心の中では、このように答えるつもりでいたのだが・・・
「うん、ええよっ!一緒に行こか!」そう口をついて返事が出てしまった。
「きっと、面白いで!岡林信康や高田渡も本物が見れるで!」
「中津川やったら近いしな・・」
「1日中、コンサートをやってるらしいで」
などなど、心とは裏腹な言葉がどんどん口をついて出てしまう、フォークソング・フリークの性である。
フォークジャンボリーの名詞が出ただけで盛り上がってしまう、そんなパブロフの犬的・条件反射だった。

「岐阜駅から9時頃出発しや、間に合うで」
「中津川まで、電車賃は幾らくらいやろな」
「駅は、中津川やなくって”坂下駅”らしいで」
「”はっぴいえんど”や”加川良”や”岩井宏”もでるらしいで」
「”三億円事件の唄”もやるんかなぁ・・・生で聞きたいなぁ・・」
「浅川マキなんかも出るらしいで、結構ファンなんやけど・・」
もう、行く気になっている2人のイメージは止め処もなく膨らんでいった。
「アルバイトしないかんなぁ・・金ないし」俺がそう良うと平井君も同じ事を考えているようだった。
「ちょっと知り合いに聞いてみるは。なんかアルバイトやる奴を捜しとったでなぁ」
平井君には、もうアルバイトのあてがあるようで、俺も分まで手配してくれそうな気配だった。
「俺も、そのバイト出来そうなら、頼んでみてくれんか?」
そう言った俺を見ながら、右手でOKサインを出し、平井君は笑っている。

そして、少し興奮したまま印画紙の焼付けはあっという間に終わってしまったように感じた。
赤く薄暗い暗室には、印画紙の定着液の酢酸の酸っぱい匂いが充満している。
作業を終え暗い暗室から出たら、もう夕焼けがグランドや校舎をバーミリオンに焦がしていた。
平井君にさよならを告げ急いで音楽室に行ったが、そこにはもう誰も居なく、俺のギターがケースに収まって音楽室の隅っこに立てかけてあった。
俺は、そのギターを肩にかけ、夕焼けの太陽光線が射す薄明るいオレンジ色に染まった音楽室を出て、校舎を後に岐路に着いた。
中津川フォークジャンボリー開催までには、もう1ヶ月にも満たない、ある夏休み前の高校の1日であった。



その2へ続く・・・・